私は絵が下手だ。
自分の絵が大嫌いだ。
描けども描けども理想の絵は生まれないし、プロとの差は一目瞭然、色やら線やら構図にパース、どれを見ても気に食わない。
あぁなんて才能が無いのだろう。
と、思っていた。
ある日の深夜、頭を掻きむしりながら自分が描いた絵と他者が描いた絵を比べていると、ぐちゃぐちゃになった頭の中で問いが現れる。
「上手い絵ってなんだ?」
他者のこの絵はうまくて、自分の絵は下手。
他者の絵は何が上手いのだ?
自分が上手いと思う他者の絵を並べる。
それらを観直す。
情報が少ない絵もあれば、精密な絵もある。
立体感のある絵もあれば、平面な絵もある。
線が繊細な絵もあれば、荒らしい絵もある。
これだけ様々な表現の違いはあるのに、これらの絵は等しく上手いと思う。
つまり上手く見える方法と言うのは一つではない。
次に、逆に自分が下手だと思う他者の絵を探してみた。
これが中々難しく、時間を要した。
数個は見つかったが、どれもそこまでひどいわけではない。
ここで気が付く。
自分の絵は間違いなく下手だと思うのに、他者の絵が下手だと思う事の極端な少なさを。
アメトーーク!と言う番組をご存じだろうか。
その中の企画で、絵心ない芸人という企画がある。まさしく一般的に見て絵心が無いと評される絵が見られる内容なのだが、私にもその企画に出られるような絵を描く友人がいる。
しかし、私はその友人の絵が大好きで、自分の絵に向けるような「下手」の烙印を押したことは無い。
では上手いのか?と聞かれれば、上手いと言える気さえもしてくる。
モナリザと比べて?自分が上手いと思う漫画家と比べて?
ピカソが15歳のころに描いた絵と比べて?
困ったことに、それらと比べても上手いに値する。
頭がこんがらがる。
「上手い絵ってなんだ?」
言語ではない答えが見え始める。
その答えを整理する。
もし私の友人が写実的に公園の絵を描いてくださいと言われたとき、友人はその答えに合うものは出せないだろう。
その時、友人の絵は「下手」になる。
つまり、答えがあると評価は変わるのかもしれない。
他者が描いた絵は受け取り手によって答えが変わるので、下手に見えづらいのではないか。
(かわいいと思ったからかわいいと思うのであり、怖いと思ったものはかわいいとは思わない。かわいいと思った絵は、自分が見た瞬間に定めたかわいい絵と言う題に答えられているため、下手にはならない。)
逆に、私が見た数少ない下手だと思う絵は、この題が明確に見えているのに表現できていないことがわかるものだ。
(かわいい格好をしているのに、顔がかわいくない。背景と被写体が合っていない等)
「上手い絵だろう?」と聞かれれば、「下手」になる絵も増える。
そして、自分の絵というものは題が明確に見えているものである。
ということは、自分は絵が下手なのではなく、自分が求める絵が描けていなかっただけなのかもしれない。
「下手だから自分の求める絵が描けていないのでは?」
と思うかもしれないが、その下手と言うのはかなり抽象的な存在で実体が無い。それではいつまでたっても下手の正体がわからない。
「自分が求めている絵が描けていないから下手に見える」ならば、自分の求めるものに変えればいいのだから明確だ。
つまり
大切なのは目標(求めるもの)を決めることだと思う。それも詳細に。
自分の求める答えを描くのだ。
また、学んだ技術を応用するなら、本当にそれが目標に近づくための物なのかどうかは吟味しなければならない。
そうして今持ちうる技術を使い、パズルのピースを的確にはめた後、真の技術不足が判明するはずだ。
納得いくまでやり直すのだ。自分のために。
最近、YouTubeなどで絵を描くための講座が人気を博している。彼らは視聴数確保のため「正解」を提示しようとする。しかし、それはその絵での正解であり、他の絵でも流用可能かどうかはわからない。逆も然り、彼らが提示する「不正解」も果たして本当に不正解かどうかなどわからないのだ。
彼らはより強い言葉で言い切る。否定さえもしてくるだろう。
だが、創作は自由だ。
正解は私たち個人の中にしかない。
おわり