なぜ嫌いな食べ物があると良くないのか

私には嫌いな食べ物が少ない。

もちろん今となっては大人なので当たり前かもしれないが、

私は幼少期から少なかったのだ。

小学生のころで言えば給食があったが、

たとえ数少ない嫌いな食べ物がそこで出ても、それらを残すことも減らすことも無かった。

これはもはや「意地」であり、そうすることが誇りでもあったのだ。

また、他人が食べ残ししているところを見ると、ますます自分の自尊心が高まった。

しかしこの感情は自分の中だけで噛みしめているものであり、食べ物の好き嫌いをする人に苦言を呈することは無い。

なぜなら、好き嫌いをする側の気持ちもわかるからだ。

現代社会において栄養の取り方など無数にある。

トマトに入っている栄養がトマトにしかないことなどないのだから、

自分のおいしいと思うものだけ食べたいだろう。

そう、現代の日本において食事とは娯楽なのだ。

また、食材が無駄になると咎めることがあるが、

食材は手を付けた時点で元には戻せないので、少し残すくらいなら食べるのも捨てるのも差はないだろう。

フードロスの問題は加工の段階から起きているのだ。

もちろん、もったいないと言う精神的なものはある。

しかしこういった感情が分からない人は存在する。

これも現代社会の生み出したものだろう、

飽和状態であるものを人はもったいないと思わない。

以上の事から、わざわざ他人に説き伏せようとは思わないのだ。

 

と、言っていられるのも他人だからである

そう、ある状況下ではこのように大人な対応ができないだろう。

つまり、自分の子供が好き嫌いしまくったらどうしようということだ。

もちろん自分の子供だろうがその前に人間、親だからと言って押さえつけるような干渉は間違いだ。

しかし、しかしだ、好き嫌いばかりなのも見過ごせない。

もちろん、病気で食べられない場合が存在することも知っている。

そう言ったものではなく、単に好き嫌いな場合はどう説得すればよいものか。

叱るのは簡単だが、叱ってしまうと何に叱っているのかがわからなくなる。

先述した通り好き嫌いはそこまで問題ではない(と言われれば反論の余地はない)。

となると、まるで言うことを聞かないから叱るようではないか。

ここで言う「言うことを聞かない」は、対象の安全のためや利益のためではなく、手中に収めるためのものだ。これはよくない。

まったく、なんという難問だろう。

だが好き嫌いと言うのは、どうにも良くない気がするのだ。

好き嫌いせずに食べれた方がカッコイイと言うのも、伝わらない人には伝わらないだろうし、八方ふさがりだ。

くそ~どうすればいいんだ~!!

 

ま、自分に子供はいないし、いっか!

 

おわり

『映画を観るなら字幕VS吹き替え』を終わらせに来た

風邪引いた。咳が止まらない。頭いてぇ。

だが何もしない日曜などありえない。

よって、ただでさえ小さい脳みそがさらに縮小している感覚があるが、このブログを書くこととする。

 

今回私が書き記したいことはこれだ。

『映画を観るなら字幕か吹き替えか』

 

「あぁ、実にくだらない。」

「映画の観かたなんて人それぞれじゃあないか。」

「どうしてして人と人は争い合うのだろう…。」

 

うるせぇ。

まず前提として、私は字幕派である。

そしてこの派閥の主張と共に、私にとあるレッテルが張られる。

それは「かっこつけ」だ。

多くの吹き替え派の主張は「吹き替えのほうが楽」だ。

そして、『わざわざめんどくさいことをしている』我々を

「かっこつけ」と蔑称する。

 

ゆるせねぇ。

 

そもそも、字幕を読むことは面倒ではない。

が、それで戦っても答えは出ない。

「字幕がだるい」と言ってる相手に「字幕はだるくない」と言っても盤面はこう着、むしろ「吹き替えが楽」と言う意思を強めるだけだ。

私はなにもどちらかがぶっ倒れるまでの殴り合いがしたいわけではない。

一方的に殴りたいのだ。

よって、次の手としてメリットのプレゼンを開始する。

ここでよく出てきがちな字幕のメリットとして「字幕の方がオリジナルのニュアンスに近い」があるだろう。

だがコレは効かない。むしろ、これこそが「かっこつけ」につながってしまう悪手だ。

だってオリジナルに近いとかどうでもいいもん。

てか、そもそもオリジナルのニュアンスがわからんもん。

マザー○ァッカーが『汚い言葉』と言う概念でしかなく、実際どれだけの攻撃力を持つのかいまいちピンと来ていない我々に、オリジナルのニュアンスもクソも無い。

もちろん、ところどころ聞こえてくる英単語からクスっと笑えたり、意味が補強されることはあるが、そこはかなりディープな部分であり、本筋が面白いうえでの付加価値だ。

さて、ではもはや何が字幕の良い所なのか。

やはり人それぞれの観かたと言う結論なのか。

否、字幕にはとあるメリットが存在する。

「嘘くささが減る」

だ。

個人的に、面白さには「説得力」が関与していると思っている。

もちろん、すべての作品において説得力が面白さを作るわけではない。

しかし、実写映画においてはこの説得力がかなり重視されているのではないだろうか。

アメコミのヴィラン(敵)たちも実写になればダサいスーツは着ないし、

るろうに剣心だっていちいち技名を叫ばない。

これらはリアリティのための説得力であり、「実際に起こりうるかもしれない」「あくまで現実のルールに基づく」ことで興味=おもしろいを引き出しているのだと思う。

しかし吹き替えは、この説得力を下げてしまう可能性がある。

しかもその作品がファンタジーから遠のけば遠のくほどなおさらだ。

だって日本語喋る顔じゃないもん。

それでなくともお前そんな声の顔ちゃうやろって言う時あるからね。

さらに演技、なんと我々は日本語になるとニュアンスがわかってしまうのだ!

よって

普段そんな喋り方しねーじゃん。

「○○だったわよ」とか言わねーじゃん。

そんな変な抑揚日常会話で付けねーじゃん。

となってしまい、一気に非現実味が増すのだ。

しかし字幕ならその心配はない。

外国人俳優の演技力は本当の意味で善し悪しが分かることは無いし、

顔と声が合わないなんてことは無い。

ニューヨークにいるのに日本語を喋ることもないし、

日常会話も海外の日常を知らないから嘘に見えることがない。

圧倒的説得力である。

 

そしてこの「心配がない」と言うのが最も重要である。

そう、2000円払ってこのガチャガチャをする勇気はない。

不安要素はなるべく少ないほうがいいのだ。

 

とにかく

私が言いたいのはこうだ。

『テレビ字幕にも映画用のヤツくれませんかね』ということだ。

ん?

そんな話してたっけ?

いや、頭が痛くてわからん。

 

終わり。

 

上手い絵ってなんだ

私は絵が下手だ。

自分の絵が大嫌いだ。

描けども描けども理想の絵は生まれないし、プロとの差は一目瞭然、色やら線やら構図にパース、どれを見ても気に食わない。

あぁなんて才能が無いのだろう。

と、思っていた。

ある日の深夜、頭を掻きむしりながら自分が描いた絵と他者が描いた絵を比べていると、ぐちゃぐちゃになった頭の中で問いが現れる。

「上手い絵ってなんだ?」

他者のこの絵はうまくて、自分の絵は下手。

他者の絵は何が上手いのだ?

自分が上手いと思う他者の絵を並べる。

それらを観直す。

情報が少ない絵もあれば、精密な絵もある。

立体感のある絵もあれば、平面な絵もある。

線が繊細な絵もあれば、荒らしい絵もある。

これだけ様々な表現の違いはあるのに、これらの絵は等しく上手いと思う。

つまり上手く見える方法と言うのは一つではない。

次に、逆に自分が下手だと思う他者の絵を探してみた。

これが中々難しく、時間を要した。

数個は見つかったが、どれもそこまでひどいわけではない。

ここで気が付く。

自分の絵は間違いなく下手だと思うのに、他者の絵が下手だと思う事の極端な少なさを。

 

アメトーーク!と言う番組をご存じだろうか。

その中の企画で、絵心ない芸人という企画がある。まさしく一般的に見て絵心が無いと評される絵が見られる内容なのだが、私にもその企画に出られるような絵を描く友人がいる。

しかし、私はその友人の絵が大好きで、自分の絵に向けるような「下手」の烙印を押したことは無い。

では上手いのか?と聞かれれば、上手いと言える気さえもしてくる。

モナリザと比べて?自分が上手いと思う漫画家と比べて?

ピカソが15歳のころに描いた絵と比べて?

困ったことに、それらと比べても上手いに値する。

頭がこんがらがる。

 

「上手い絵ってなんだ?」

言語ではない答えが見え始める。

その答えを整理する。

もし私の友人が写実的に公園の絵を描いてくださいと言われたとき、友人はその答えに合うものは出せないだろう。

その時、友人の絵は「下手」になる。

つまり、答えがあると評価は変わるのかもしれない。

他者が描いた絵は受け取り手によって答えが変わるので、下手に見えづらいのではないか。

(かわいいと思ったからかわいいと思うのであり、怖いと思ったものはかわいいとは思わない。かわいいと思った絵は、自分が見た瞬間に定めたかわいい絵と言う題に答えられているため、下手にはならない。)

逆に、私が見た数少ない下手だと思う絵は、この題が明確に見えているのに表現できていないことがわかるものだ。

(かわいい格好をしているのに、顔がかわいくない。背景と被写体が合っていない等)

「上手い絵だろう?」と聞かれれば、「下手」になる絵も増える。

そして、自分の絵というものは題が明確に見えているものである。

 

ということは、自分は絵が下手なのではなく、自分が求める絵が描けていなかっただけなのかもしれない。

「下手だから自分の求める絵が描けていないのでは?」

と思うかもしれないが、その下手と言うのはかなり抽象的な存在で実体が無い。それではいつまでたっても下手の正体がわからない。

「自分が求めている絵が描けていないから下手に見える」ならば、自分の求めるものに変えればいいのだから明確だ。

 

つまり

大切なのは目標(求めるもの)を決めることだと思う。それも詳細に。

自分の求める答えを描くのだ。

また、学んだ技術を応用するなら、本当にそれが目標に近づくための物なのかどうかは吟味しなければならない。

そうして今持ちうる技術を使い、パズルのピースを的確にはめた後、真の技術不足が判明するはずだ。

納得いくまでやり直すのだ。自分のために。

 

 

最近、YouTubeなどで絵を描くための講座が人気を博している。彼らは視聴数確保のため「正解」を提示しようとする。しかし、それはその絵での正解であり、他の絵でも流用可能かどうかはわからない。逆も然り、彼らが提示する「不正解」も果たして本当に不正解かどうかなどわからないのだ。

彼らはより強い言葉で言い切る。否定さえもしてくるだろう。

だが、創作は自由だ。

正解は私たち個人の中にしかない。

 

おわり

ゴジラ-1.0ってゴジラ面白いと思ったことないヤツが作っただろ

さて、過激なタイトルになってしまったが許していただきたい、なぜなら私は今怒りに満ちている。

このブログをもし、偶然にも、万が一、奇跡的に見てしまった製作関係者には申し訳ないが、言葉を選ばず「ゴジラ-1.0」の話をしたいと思う。

まず前提として、私はゴジラファンではない。

それもそうだ、アマプラが配信したのでやっと観たようなやつがゴジラファンな訳はない。

ではなぜそんなゴジラファンでもないヤツがこの映画にとやかく言おうとしているか、それは私の2時間を奪われたからだ。

あぁ、「ゴジラ-1.0」マジでつまらなかった!!!

ではなにがつまらなかったのか、

私は人間がつまらないと思う要因に「期待」と言うものが関係していると思っている。映画にせよゲームにせよ漫画にせよ、誰しも「内容はどういったものなのだろう」と想像し、その想像の中で「こんな内容かもしれない」と予想して、その予想が実際に行われることを期待して手を取るはずだ。

CMも昨今のやたら長いタイトルのラノベも、YouTubeのサムネも、この期待を引き出すためのものだ。

そしてこの期待による販売促進は関連作品で大きく効果を発揮する。

前作により想像は安易になり、求めるものが定まるのだ。

バックトゥザフューチャー2には皆、コメディとハラハラを期待する。

インディジョーンズ 魔宮の伝説にはさらなる冒険活劇を期待する。

ジャッキーチェンにはカンフーとコメディ、

ウィル・スミスにはジョークとアクション、

マイケル・ベイには爆発を期待するのだ。

これらにより足取りは軽くなる。

そして、この期待に応え続ける作品が続いてきたのだろう。

 

だが、たびたびこの的を外す作品が現れる。

そうして観客は「思っていたのと違う」ことにより興味を失う。

興味が無いとつまらないは同義だ。

例えばエヴァンゲリオンなんかはこの代表格だと思っている。

第一話や序や破やらでエヴァンゲリオンの戦闘アニメーションを楽しんだ観客が、続きに求めるのはもちろん戦闘アニメーションであり、よくわからん精神的な何かではない。

世間的には、このシーンの意味は!?とか、聖書がどうのこうの「隠された深い設定」がおもろいみたいな雰囲気になっているが、

エヴァンゲリオンに最初に魅せられたのは絶対戦闘アニメーションである。

こういう設定的な所での人気の確立は進撃の巨人なら(漫画の初期の作風からして)私は頷くが、

エヴァンゲリオンはダウトだ。

みんな庵野監督のロボットアニメが見たかっただけだ。

だがそうは庵野監督が許さなかった。

 

で、ゴジラ-1.0」

あの庵野監督ですらゴジラを作ったのに、ゴジラ-1.0はゴジラではないのだ。

皆がゴジラに期待するものは何だろう、

私がゴジラ1作目を観て作った続編への期待は

ゴジラの更なる派手な破壊と、人類の対抗」だ。

そしてこれまでのゴジラシリーズも、おおむねこの通りだっただろう。

だがゴジラ-1.0は違う。

なんとその内容はジブリの様な主人公の成長記録だ。

ゴジラはその主人公が成長するための設定でしかなく、千と千尋で言うところの風呂屋、トトロで言う所のトトロなのだ。

そのためゴジラの破壊シーンは少ししかなく(しかもそのシーンですら主人公が成長するための起爆剤)、大半が主人公の顔を映しているのである。

それを見て私は思った。

ゴジラ-1.0ってゴジラ面白いと思ったことないヤツが作っただろ!!

 

そう言った意味では、もしかしたらゴジラ-1.0ってゴジラを面白いと思ったことない人は面白いのかもしれない。

だが私にはかなり苦痛な時間となってしまった。

あれだけもてはやされてたCGも割とあれで、トランスフォーマー1作目観たことあんのかって言いたくなるものだったし(観客に製作費は関係ないので製作費の違いなどは考えないものとする)。

 

まぁ、たしかに海のCGは良かったけどさ、

あのゴジラに踏みつぶされるときのCGなんか「うわ」って声出るクオリティだったよ…。あと電車のシーンのCGも変なライティングで、てかあの電車のシーンとのつなげ方下手過ぎるだr

 

ええい!!

つまりだ、続編を作るときは何を期待されてるのかマジで考えて欲しい。

ターミネーター2はちゃんと期待を汲み取った上での大胆な発想だからね。

ほんと、主人公ゴジラだからね。博士じゃないからね。

 

終わり

 

ちなみに「シン仮面ライダー」がシンシリーズのなかで今一歩なのもこの期待だと思う。ゴジラウルトラマンも社会派的な部分で期待しやすいからね。

思い返してみれば何も買ってなかった2023

早速だがタイトル詐欺をしてしまったことに謝らせていただきたい。

何も買っていないはずはないのである。

正しくは「特筆すべきものを買っていない」と言うべきだろう。そう、少なくとも万を超えるものは買っていない。では逆に「特筆すべきもの」ではないなら何を買ったのか、それはズバリ漫画の単行本だ。

むしろ単行本以外買っていないのでは?と言うレベルである。ではなぜそこまで物を買わないのかと言えば、「よくよく考えてみれば要らない。」というマインドが高尚な僧のように物欲を打ち消してしまうからだ。

そもそも、人が必需品以外の物を購入する時はすべて『衝動買い』であると私は考えている。

例えば、私は一時期ダイソンの掃除機が欲しくなったことがある。絶大な吸引力、スタイリッシュなデザイン。アレを欲しがらない人類など存在しない。さらに我が家の掃除機はポンコツと来ている。もはや買わない余地など存在していないのだ。しかし今も住み着いているのは、ポンコツ掃除機だ。

それはなぜか、答えは「掃除が終わったから」だ。

ダイソンが欲しい時期は掃除前と掃除中、今から使う相棒の頼りなさと掃除中の仕事ぶりから湧き上がる欲。しかし一度掃除が終わってしまえば掃除機も一旦は用なし。あれだけ欲しかったダイソンも、満腹になってから出てきた大好物の様になってしまう。

加えて私は遠出をしない。

遠出先での偶然の出会いがもたらす衝動はなかなか手ごわい。靴や服なんかは「もう二度と会えないかもしれない」と思うとつい手を伸ばしてしまうものだ。

だが私は遠出をしない。そもそも出会わない。

こうして、『良くも悪くも特筆すべきものは何も買っていなかった2023』となってしまったのである。

 

では、なぜ漫画の単行本は買うのかとなってくる。

私の理屈で行けば、別の漫画を読むなりして気を紛らわせればよいはずなのだ。ましてや現代、アプリなどで多くの作品が無料で読めるのだから漫画欲は満たし放題だ。

しかし、これがそうもいかない理由がある。

 

それはなにか、

「漫画は単行本が売れないと終わってしまう」だ。

 

一度ハマった作品、できれば作者のやりたいことをすべてやっていただいてから終わっていただきたい。なんならその作者の才能に惚れている場合もある。今確実に供給されるものがあるならば、ファンはその存続を望むだろう。

 

だが「漫画は単行本が売れないと終わってしまう」のだ!!!

 

それがたとえ冒険の途中だろうが、修行中だろうが、風呂敷広げ中だろうが、

「漫画は単行本が売れないと終わってしまう」のだ!!!

 

しかも連載中の漫画の単行本が売れないといけないのは“今”“この瞬間”である。

こんなの「バスに乗り遅れるな」ではないか!

明らかニッチな漫画は一票が左右してしまう。

無論私の一票で打開できるとは思っていない。しかし一票の集合体が100票であり1000票なのである!だからみんな選挙にはいこうね。

コレを前に私の上記マインドは通用しない。

否、漫画が終わってしまえば欲しい期間を突破できるだろう。連載が終わってしまえば単行本の売れ行きなど…

 

どうでもいいわけないだろ。

 

一度才能に惚れた人には幸せになって欲しいだろ!!すこしでも漫画で生計立てて欲しいだろ!!

もはや単行本を買うと言うのは応援、貢であるのだ。

「我々はお金を渡すので良ければ…へへ…おねがします…。」ということなんだ!

 

と言う訳で私は漫画だけは購入する。

皆も買おう。

 

おわり

幸せは恒常化すれば普通になると言うことを餅で噛みしめる。

今週のお題「餅」

幸せと言うのは不幸の中からでしか輝いて見えないものです。

このことに関し、「そんなことわかっとるわ。」だとか、「言われんでも知っとるわ。」とか言う人は、「本当にそうなのだろうか。心配になってきた。」と自問してみてください。

「理解った気でいる」これほど恐ろしいものはありません。

自分の価値観を固定させ、これからの人生を過去と現在の偏見で物事を進めていくことになってしまうのですから。

 

と言う前置きもそこそこに、話を戻して餅の話をします。

餅の一番美味しい食べ方をご存じでしょうか。

一番と言うぐらいですから、「おいし~。」的な感想が出た食べ方ではなく、『食べた瞬間思わず笑みがこぼれる』様な食べ方でなければいけません。

そんな餅には荷が重すぎる一番。あなたはご存じでしょうか。

残念ながら、私も知りません。

 

否、

 

“忘れて”しまいました。

 

ーさかのぼること大体1年前の深夜、お腹が空いた私は冷蔵庫で身を寄せって寝ているお餅を引きずりだし、トースターへぶち込みました。

餅が焼けるまでは5分。

私はキッチンの寒さを紛らわすため、うろうろと体を動かしていました。

今のうちに醤油や皿を用意した方が良いんじゃないかって?

いいえ、もはや餅を醤油で食べることに飽きてしまった私は、醤油を取り出すこともありません。私にとって餅とはただの『腹持ちする食べ物』。

この日も素餅を食べる気で焼き上がりを待っていました。

すると急に、コレがかの天啓と言うものでしょうか!私の頭の中に「餅にマヨネーズと醤油、一味かけたら美味いんじゃね?」と言う声が聞こえてきたのです!

私はすぐさま、「そなたは誰か!」そう叫びました。

丁度餅も膨らみ、トースターが深夜にもかかわらず無遠慮に「チン!」っと5分を知らせてくれました。

私はすぐさま冷蔵庫から醤油とマヨネーズ、棚から一味を取り出し、皿へ揚げられた餅へ一斉掃射しました。

するとどうでしょう!なんとも汚い見た目ではありませんか!

料理は中身と言いますが、餅の上に白子が乗ったようなこの見た目は、

マヨラーではない私からすればなかなかの異物感です。

しかしやっちまったのはこの私、意を決して餅ON白子にかぶりつきます。

熱い!熱い!熱々餅!ファーストインパクトは温度!

この熱さの中から味を見つけ出すため、口と餅のスキマから空気を取り込みます。

「ス―ッ!ス―ッ!」

そうこうしているうちに、醤油とマヨネーズ、そして一味が舌にたどり着きました!

刹那!舌から脳へ電流が走り、思わず出る!!!!

満面の笑み!

そう!この日私は『餅の一番美味しい食べ方』を発見したのです!

 

それから私は来る日も来る日も醤油マヨネーズ一味餅を食べました。

これならいくらでも食べられると思い、新しい餅も買いました。

食べるたびにこぼれる笑み、コレが幸せと言わずに何が幸せか!

 

しかし、ある日突然、笑みがこぼれなくなりました。

いつも通りの焼き方で、いつも通りの味付け、

あの満面の笑みを引き出したものからなんの変化もしていません。

けれど、そう、それこそがいけなかったのです。

恒常化してしまった幸せは、いつしか“普通”になってしまったのです。

今となっては本当に醤油マヨネーズ一味餅が、

一番おいしいお餅の食べ方であるかどうかの確証もありません。

私は幸せを得すぎてしまったがために、幸せを失ったのです。

幸せと言うのは不幸の中からでしか輝いて見えないものであるということは、

理解っていたはずだったのに。

 

おわり